経済と文化の流動性と多様性

世界は流動化に直面している。文化はITにより流動化し経済はグローバリズムにより流動化している。

文化の流動化を喩えてみる。あなたは村一番、上手な笛吹きだったとしよう。文化の流動化が成立していない社会においては村一番の笛吹きは即ち世界一の笛吹きに等しい。村人はあなた以上の笛吹きを知らないのだから。ところが情報網が発達して容易に隣村の笛吹きやら世界中の笛吹きやらが村人の耳に届くようになる。世界中の笛吹きよりあなたの方が上手でなかったら、あなたは一番の笛吹きから百凡のそれに転落する。

一方、経済の流動性を喩えるならこうだ。あなたは村のコロッケ屋だ。一個、80円の原価のコロッケを100円で売って糊口を凌いでいた。ところが隣村から一個80円のコロッケを売る業者が進出してきた。あなたのコロッケは途端に売れなくなり食うに困るようになってしまう。

これらの流動性は勿論、単独で発生しているわけではなくて両輪の動きとして我々に迫っている。

俺はつい先日まで100円のコロッケ屋さんが食べられる社会のほうが住みやすいのではないかって思っていた。けど、最近ではセイフティ・ネットさえ整っていれば経済の流動性はどんどん高まって良いのではないか、その流動性を活かして生産性の向上を社会全体で実現していった方が好ましいって思うようになった。

100円のコロッケ屋さんは商売替えが容易にできるような、或いは最悪食いっぱぐれても最低限の生活が維持できれば社会全体として幸せなのだ。

ところで流動性は概ね多様性を凌駕する。村一番の笛吹きは世界一の笛吹きではなくても個性があるのだ。コロッケ屋も80円のコロッケよりも圧倒的に美味しくなくても好みによってはコッチのほうがすきだって人も多かったりする。けど、その差異は流動性の前で消し飛んでしまうことが多い。

例えば少し前の日本には商店街があった。よく言われるように今商店街は瀕死の状態になっていて、どうやって再生しょうか活性化しようかみたいな話ばっかりだ。商店街は多様性をパッケージングして提供するやり方だった。多様性が前提になっていた。今はどうかというとコンビニとスーパーマーケットとショッピングセンターで殆ど代用されてしまう。多様性のパッケージが変わっただけかというとそうでもない。ショピングセンターのコンテンツは全国共通のチェーン店だったりする。多様性は失われたと言っても良い。

経済の流動性はしょうがないものとして俺は受け入れ始めているんだけど、文化の流動化を何処まで受け入れるべきなのかななんて事でちょっと悩んでる。悩んでも考えてもなにも変わらないんだけどどういう態度をとるのが正しいのかなって考えている。いろんな笛吹きがいていろんな笛を聞きたいし、いろんなコロッケを食べたいじゃないか。