ワルツ

出先で思いの外、仕事が早く終わった。これから社に戻って仕事をする気にもなれない。何よりここからだったら家の方がずっと近い。会社に戻るほどでもないが家に帰るのも早すぎる。

暮れ始めた見慣れない街並みを少し散策してみようかと思った。僕がこんな事を考えるのは珍しい。少し歩き回ったところで見つけた一つの店。何処にで もあるようなスナックだ。贔屓目に見てもお洒落とは言えない草臥れた店。何故か店構えがとても暖かい気がした。しかし、僕がそこに足を踏み入れる理由とし ては不十分だ。こういう店に一人で入ったことはない。付き合いで入るのも気が進まない。僕は酒が飲めないし、酔客に合わせられるほどの機転もない。

それでも何故か僕はその「マリオネット」という店に足を踏み入れた。

カウンターが中心の所謂ウナギの寝床のような店内だ。僕は一番、奥のカウンター席に座る。少し考えてビールを頼んだ。こういう店で一番奥に座るのは 不自然なことなのかもしれない。一見の客は手前に座る。そんな作法も僕は知らなかった。構わず僕は一番、奥に進んだ。「彼女」が奥にいたから。

飲めないビールを少し舐める。お通しに少し箸を付ける。そんな、気の進まない手順を一通り踏んで僕は「彼女」を眺め続けた。多分、僕は「彼女」の気配を店の外から感じたのだ。そして引き寄せられるように今ここにいる。

カウンターの中からママと思しき初老の女性が僕に声をかけた。
「お兄さん、その人形気に入ったの?」
「うん」と僕は答えた。

身の丈は80センチほど。少し大きめのフランス人形なのか。僕には人形の種類など判らない。濃い臙脂色のドレスを着ている。ドレスの裾からはレース が顔を覗かせている。ドレスと同じ色の大きな帽子を被っていた。青みがかった僅かな白目の中に佇む大きな瞳の色は鳶色で、肌の色は透明感を湛えた白。肌の 部分は布で出来ているのかそれともセルロイドとなのか僕には判らなかった。けど、そのどちらとも違っているように思えた。帽子とドレスは所々、埃が貯まっ ていてお世辞にも綺麗とは言えない。でも、肌だけはどこまでも綺麗だった。不思議なぐらい綺麗だった。

「彼女」はカタンカタン、と動く。音楽に合わせてというのではない。店の有線からは彼女の動きとは無関係に下品な音楽が流れている。その動きの中 に僕はワルツのリズムを見つけた。その刻むリズムに合わせて彼女が音楽を纏い始める。カタンカタンカタン。その調べは下品な有線放送を消し去り心地よ い時空として僕を包み込んでくれるのだった。

最初の夜、どのくらい時間が経ったんだろう。気が付けば頼んだビールをグラスに注いでそれを三分の一ほど飲んだだけ。お通しも干からびている。店の 中は他の客が二人いてママと何か話してる。僕は蚊帳の外だ。時計を見ると終電間際の時間だ。僕は心の中で彼女に別れを告げ、会計を済ませると店を出る。後 ろ髪を引かれる思いで。

それから僕は何度も「マリオネット」へと足を運ぶことになる。カタンカタンカタン。少しだけビールを舐めて少しだけお通しを口に含んで、終電ま での至福の時を過ごす。流行っている店だったら迷惑だろうけどこの店だったら大丈夫だ。僕は店の彼女と一緒に店のインテリアのように身じろぎもせず見つめ 続ける。カタンカタンカタン

そんな日々が流れていたある時、僕は出張を命じられた。一ヶ月ほど彼女に会えなくなる。それはとてもつらい事だけどしょうがない。出張に出る前の最 後の晩、僕は「暫く来れないけど待っていてね」と彼女むかって心の中で呟いた。彼女は頷いた。いや、そこはいつも通りクビを縦に動かす動作なんだけど。う ん、って答えてくれたような気がした。

どうしようもない愛おしさがこみ上げてくる。誰もこちらを見ていない。僕は初めて彼女に指を触れる事にした。埃だらけの彼女の肩に指先を添える。そ して彼女の顔を覗き込む。次の動作で彼女は顔をこちら側に向けるはずだ。その瞬間を逃さないように僕は彼女に触れるようなキスをした。その次の動作で彼女 の顔は僕から離れるはずだ。ところが、一瞬、彼女の動きが止まった。僕のキスを受け入れるように。

次の日の朝、僕は狂おしいほどの空虚を抱え出張に出かける。今までにない集中力で業務に打ち込みそれを予定より少し早く終わらせた。早く彼女に逢い たい。帰りの飛行機を降り、僕はまっすぐに彼女の元に向かった。遠目で判ったのだが様子が違う。店が開いてない、というより店を包んでいた優しい空気は消 え去っていた。僕は出張の大きな荷物を抱えながら店に駆け寄る。

店は潰れたらしい。彼女は? 喉の奥がカラカラになり動機が早まった。当然、扉には鍵が下りている。「マリオネット」の看板もない。僕は人目も憚らず扉のガラスを割りその中に手を入れて鍵を外す。何とか扉を開けることが出来た。はやる気持ちを抑え店に飛び込む。

彼女がいない。僕の全存在が悲鳴を上げた。

僕はどのくらい誰もいない店の中で佇んでいたのだろう。崩壊した精神を一つずつ拾い集め事態の把握に努めた。店は潰れた。彼女は何処かに持ち去られ たか。だとしたら何処か。骨董屋にあるか。いや、物質としては殆ど壊れかけていた彼女は「ゴミ」として処理された可能性が高い。僕は何をすべきか。出来る 事と言えばゴミあさりしかない。それで見つかるのか。いや、見つけなければなるまい。こうなってしまった今、僕には他にやるべき事がない。

そこから先、僕は何処をどう探したのかよく覚えていないのだ。僕は丹念にゴミを探し求めた。家にも帰らなかったし寝食も忘れていた。仕事も欠勤した ままだ。再び彼女を見つけるという希有な可能性の為に全てをかけていた。僥倖と言わねばなるまいと思うが、僕はゴミ捨て場から彼女を見つけることが出来 た。

そこに辿り着くまでに僕は力を使い果たしていたように思う。彼女の臙脂色の服がゴミの山から見える。僕はゴミをかきわけ彼女をそこから救い出した。 彼女の体をたぐり寄せ抱きしめた。力一杯。そのまま動きたくなかった。そのままじっとしていた。数時間か数十時間か。段々、意識が遠のいていった。勿論、 僕は幸せだった。

どこまでが本当でどこまでが妄想なのか判らないけど、僕は彼女を抱いた。いや、真実などどうでも良い。僕がそうしたという認識があればそれで良い。 彼女は泣いていた。彼女も嬉しかったようだ。その青い涙と彼女の破瓜の血で僕たちは紫色に染まりながら狂ったように愛し合った。やっと一つになれた。そう 強く感じた時、僕は自分が生きているという実感が持てなくなった。その感覚は彼女を愛してしまった自分に相応しい。僕の精神はそこで活動を停止した。も う、元に戻る事など望む筈もない。