幸せとか不幸せとか、孤独とか孤独じゃないとか

以下の内容は自分自身のつぶやきとしてってのが半分、友人に語りかけるってのが半分。語りかけられたって思った人がもしこれを読んだら、そこはかとなくスルーして下さい。

幸せとか不幸とかは自分のあるべき姿と思い込んでいるところと現状を比べて、現状があるべき姿より悪いと思ったら自分は不幸だと感じる。この「あるべき姿」というのは移ろいやすいのでそこを調整すれば自分は幸せにも不幸にもなれるわけだ。

例えば飢えて死にそうな人は一個の干からびたパンで充分に幸せだ。飢えることを知らない人は世界三大珍味をたらふく食べても満たされないかも知れない。不幸せというのは相対的な物だ。自分の欲が満たされなければ人は自分を不幸と感じる。

言い換えれば幸せというのは自分の欲が満たされ続けている状態だ。けど、欲は満たされたら次の欲が出てくる。100万円が欲しいという欲はそれを得たら次は一千万に対する欲に変わる。その、エスカレートする欲を満たし続けることが出来る人って言うのはほんの一握りだ。だから、幸せというのは欲の位置や方向が定まらない限り安定しない。

けど、絶対的な幸せってのはある。家族と一緒に過ごす幸せとか、好きな相手とセックスする幸せとかは普遍的だ。この幸せは満たされ続けるのだ。つまりは all you need is love.

さて、孤独だけどこれも相対的なものなのだ。自分はこれだけの愛を他に与え、他からはこれだけの愛を受けるべきだって思う位置というか閾値みたいなものがある。これは幸せに対する欲よりももっと自覚しづらいように思う。

何となく自分には愛すべき対象が足りないとか、愛されていないとかって思ったら人は孤独を感じる。じゃあ、どのくらい愛に満たされれば満足かという基準もありそうでいて無いように思う。人が人を求めるのは本能に極めて近いのだが、自分が孤独だと感じるときは愛に満たされていそうな他人を眺めるときだ。

やっぱりまとまらないな。一言で言えば幸せも不幸せも孤独も全ては相対的な物だ。自分の立ち位置を少し変えればそれらは良い方向にも悪い方向にも行く。とはいえ、絶対的な不幸や孤独がないかというとそうとも言い切れないんだな。