善光寺って偉いのだろうか

聖火リレー、日本でも抗議 「国境なき記者団」事務局長

聖火リレーの出発式会場を辞退した善光寺について「勇気ある行動だ。筋の通った態度に敬意を表したい」と称賛。一方、日本政府には「人権問題に慎重すぎる。世界第2の経済大国としての立場を生かして発言してほしい」と要求した。

俺が聞く限り、中国の人権蹂躙を非難しチベット亡命政府を支持する人の殆どがこの善光寺の判断を褒め称える。俺はそれに対し当たり前なんじゃないかとしか思えない。

今までも一貫して主張しているが俺の立場としては中国の人権蹂躙は断固反対。しかし、チベット亡命政府は支持できないってところだ。理由はここここで書いたとおり。

それとは別に日本の仏教関係者はなんで黙ってるのってのが不思議だった。同じ仏教徒がその信仰などを理由に弾圧されているのを看過するのか。もっと大きな声を上げるべきだろう。善光寺にしても偶々、自分の場所がリレーのスタート地点になっていたとので問題を突きつけられた。スタート地点になっていなければ何も言わなかったかもしれない。他の数多あるスタート地点になっていない寺院は何も言わないのか。

宗教はかつて、信仰であると同時に思想であったり、時には政治であったりしたはずだ。今でも宗教家はその考え方は宗教の枠組みを前提にしていると思う。宗教的な思考の枠組みを全く採り入れてない人間は宗教家とは言えまい。

また、チベット仏教も日本の多くの仏教も大乗仏教であると理解している。自分だけではなく他のみんな=一切衆生を救いたいとする思想だ。

であれば日本の仏教徒もこの事態に及んだら一斉に声を挙げるのが当たり前なのだ。声を挙げていない仏教徒がおかしいのだ。

なんて考え方は純情すぎるのか。日本の仏教は既に宗教なんかじゃなくて主に葬儀関連を司る機関としてしか機能していないのかもしれない。葬儀屋に何を期待しても無駄だろう。一企業に等しい存在なのだ。ほんの少しの宗教心のかけらが残っている善光寺の坊さんらが奥歯に物が挟まっているような言い方しかできないという事実がこの状況を物語っているではないか。

復活祭のローマ法王、チベットなどの平和に「解決」を

法王の恒例メッセージ「ウルビ・エト・オルビ(「ローマと全世界へ」の意)」の中でベネディクト16世は、「ダルフールソマリアなどのアフリカの地域や苦しみ続ける中東、特に聖地(パレスチナ)やイラクレバノン、そして最後にチベットなどをどうして思い出さずにいられよう。そのすべての人々に、平和と共通の利益を守る解決法を見出すようわたしは促したい」と述べた。

イタリアの報道によると、中国政府はこの呼びかけを拒否し、秦剛(Qin Gang)外務省報道官は翌20日、「寛容というものは、法によって罰せられるべき犯罪人のためには存在しない」と強くはねつけた。

詳しく知ってるわけではないけど中国にもクリスチャンはいるだろう。ローマ法王がこう発言することにより中国のクリスチャンが白眼視、最悪の場合は迫害される可能性がある。そんな風に大きな影響力を持つという意味でこのローマ法王の発言は日本の坊さんのそれよりもリスクが高いと言える。それでもローマ法王は言う。聖火リレーとは関係なしに。日本の坊さんよりこっちの方がよっぽど戦ってるじゃないか。

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ちょっと補足。俺がチベット問題に対して一定距離を置いてるのに日本の坊さんをけしかけているというのは一見矛盾している。けど、日本の坊さんはチベットの坊さんの仲間じゃないかって思うのだ。仲間が困ってるんだから助けるのは当たり前だろう。俺は仏教徒じゃないしチベット人でもないからちょっと距離を置き行く末を見ているという感じだ。