SEAMO/テルマ文化-表現から会話へ
考えを及ぼす事が出来る範囲、或いは考えを及ぼそうとしている範囲というのがある。誰でも自分自身のことは考えるし、自分の家族、恋人、親しい友人のことぐらいまでは考える。会社や学校など自分が所属している集団についても考えるし、社会や国家、国際情勢のことまである程度は考える。さらにその先の地球とか宇宙とかその成り立ちとか宇宙の果てとかについて考えることがあるし、考え続けている人がいる。存在するかどうか判らない神とか宇宙の意志とかそんな物に思いを馳せる人もいる。この辺まで広げると広いのか狭いのか訳わからなくなるけど。
考える範疇が広ければ広いほど自分自身が影響を及ぼすことは出来なくなる。けど、考えられる範疇を出来るだけ広げ考え、知ったり影響を及ぼすように努力することによって技術や文化は進歩発達してきたのだ。
以上が希有壮大過ぎるだろって前置き。
SEAMO/青山テルマ的な文化というのは捉えている物がとても狭い。恋人や親しい友人ぐらいまでだ。携帯小説「あたし彼女」を読んでいても思ったんだけど物語の範疇が狭いのだ。このような歌や物語が共感を得ているというのは狭い範疇でしか物事を考えていないって事になりはしないか。それじゃ進歩も発達もないよなんて上から目線で言いたくはないのだけど、すぐに袋小路に迷い込み同じ事をごちゃごちゃ繰り返すだけの文化になりそうだ。
それがまずいのか悪いのかっつーとまずくも悪くもないし世の中そんなもんかも知れない。mixiとかtwitterとかが受けるのはその「狭さ」が故かも知れない。勿論、ネットワークなので広がりはあるんだけど何となくせせこましい感じがするのが良いのだ。どちらかというと表現の場ではなくて会話の場だ。
SEAMOテルマ文化はそういう表現より会話って潮流を受けてなのかって思うと納得がいく。勿論、音楽であり作品である以上、それは表現なのだがより会話にちかい表現だ。そのうちこんな歌詞が出て来たりして。
今日の昼飯はカツ丼だったよ 昨日は牛丼だったよ みんなは何食べた?
twitterあたりに良くありそうな会話。会話だったら良いんだけどこいうのが曲になるかもしれない。だって、こんな会話を誰でも見れるウェブに流す日が来るなんてちょっと前まで想像できなかったことだ。