続・9.11の事

あの瞬間に新しい時代が始まった。21世紀に入ったばかりの出来事だから。あれをもってして21世紀が始まったといっても過言じゃない。じゃあ、あの事件が何故新しかったのか。意外に語られていないような気もするし語られ尽くしているような気もするけど書いてみよう。

一点目は「戦争」の終焉かもしれない。戦争は国家主権と国家主権の争いである。いや、20世紀の二度の対戦を通してそう定義され直されただけかもしれないけど。国家がなければそれは戦争ではなく紛争とか呼ばれる。その戦争って定義が曖昧になってきた。そして誰もが事態を捉えづらくなってきた。

アメリカはアフガンに攻め入った。そしてタリバン政権を倒した。じゃあ、戦争は終わったのか。終わっていない。その後、イラクにも戦争を仕掛けた。そしてフセイン政権を倒した。戦争は終わったか。やっぱり終わっちゃいない。敵は国家主権ではないのだ。国家主権に代表される整然とした「戦争」は終わってしまったのだ。残るのは誰が敵だか判らないいつまで続くのか判らない、いつ終わったのかも判断できない泥沼である。そんな「戦争」を終わらせる、戦争を再定義せざるを得ないところまで持ち込んだor追い込んだきっかけが9.11なのだ。

もう一点は現前性の恣意的な発現。事件の報道がWTCが瓦礫と化したあとでしかなかったら、あの二機目の衝突のシーンとビルの崩壊のシーンがあそこまで鮮明に残っていなかったら。我々はあの衝撃を感じられただろうか。狙っても出来ないぐらいの僥倖(?)とそれを即座に世界中に配信する技術とその現前性を共有しうるネットワークの存在があの事件をさらに鮮明にした。為政者たちは組織されていない少数民族や宗教家や不満分子の力に震撼し、それら迫害されている人々は自らの蜂起の可能性を信じるきっかけになった。ここで言う現前性はリアリティと言い換えても良いのかもしれないけどちょっと違う。絶対にそこにあると信じさせる力がある映像だった。リアリティという意味では映画のCGより重みが無く静かで嘘っぽかった。けど、絶対にそこにある出来事だとあの映像を見た世界中の誰もが信じることが出来た。

そして今は現前性が交錯した時代である。目の前にいるお年寄りに席を譲ることが無くても「○○ちゃんの心臓手術のために寄付をお願いします」なんて呼びかけに同調してしまう。目の前にいる人より見ず知らずの人を優先する。そんな風に現前性が恣意的にシャッフルされている状態なのだ。9.11が恣意的であったかどうかはそう断ずるのも難しい要素が多い。けど、あれが、瓦礫だけの映像だったらここまでの力は無かっただろう。その力があったからこそ発達したマスコミとネットがそれぞれ両輪を成しながら様々な解釈を間断なく繰り返し続ける事になった。こうしてこの事件はますます我々にとって大きな意味を持つに至った。そして今でも持ち続けている。同じ事が20年前に起こったしてもここまでの影響力は無かった筈だ。

あの映像とその後の解釈などで我々の識閾下には「テロリスト」に対する恐怖がインプリメントされてしまった。だから、アフガン侵攻もイラク戦争もなんとなく「仕方ないよね」って形で世界に受け入れられた。あまつさえ支持する人もいるぐらいだ。為政者達は少数民族の弾圧を丹念に行うようになった。これは9.11前と9.11後で何かが変わったのかどうかは判らない。けど、そういう話が明らかに増えた気がする。弾圧される側の意識が変わったというのもあるだろう。

多分、ずっとこの混沌とした状況は変わらない。変わるきっかけが見つからない。いつかは収束していくのだろうけどとても時間がかかりそうだ。そしてこれは7年前のあのときに始まった。単なる象徴的出来事以上の意味を持つ事件だった。

よく言われるアメリカの陰謀、または自作自演説に関しては俺はあんまり重要性を感じない。このような混沌に踏み込む意志、イスラム圏を解体し自らの資本主義の秩序の中に組み込もうとする意志の萌芽がこの事件の前であったのか、後であったのかってのはそんなに意味がないだろう。犯罪者がいたとしたら吊し上げたい気分だがその特定が出来ないのであれば詮索しても仕方がない。