悪い人などいない

加藤事件に言及したところでいくつか反論を頂いた。反論に関してはコメント欄で一応の回答をさせてもらったけど、ちゃんと返答するには現時点での俺の犯罪に対する考え方というのを纏めた方が良いかなって思ったので書いてみる。

犯罪には物語がある。犯罪に至るまでの一つの人生という物語。勿論、物語と言うほど因果律が明確ではないし結論に結びつかない事柄が出現しないという事でもない。一つの人生も見方を変えれば様々な物語が出現しうる。或いは人生は物語に準えるのは不適切なのかもしれないという考え方もあるだろう。それでも犯罪に至った経緯なり動機なりはあるはずだ。

幸せな人間はあまり犯罪を犯さない。どちらかというと不遇に見舞われた人が犯罪を犯す。不遇は所謂自己責任という範疇の物もあるだろうし不可抗力的な物もある。産まれたばかりの赤ん坊は大抵、犯罪を犯すような素養を持っていない。それがその人間に置かれた環境によって少しずつ世の中や一定の他者に悪意を抱くようになる。同じ境遇で悪意を抱く者も抱かない者もいるという意見がある。けど、同じ境遇ってあり得るのか。同じ両親の元でも兄弟であれば境遇は違う。双子のように全く同じ境遇のように見えたとしてもそれらはやはり違う物になるだろう。*1

その悪意を克服して踏みとどまることが出来ないから悪いのだ、それが罪なのだというのが大方の意見だろう。この踏みとどまる力というのも実は後天的な経験に裏付けされるのだ。我慢することを知らない、教えてもらっていない人もいる。

ここまで後天的な要素ばかりに言及してきたけど、勿論人には持って生まれた素養はある。その素養もいかなるものであっても何事かを為す前は個性でしかない。素養自体が罪と言うことはなかなか考えづらい。

犯罪を犯す動機となる悪意は産まれてから紡がれた物語の中で少しずつ形作られてしまう。一方、それを踏みとどまる忍耐とか善意とかも当然、同じようにして作られる。悪意ばかりが突出し善意が育たない環境にあってはどうしたって人は罪を犯しやすくなる。勿論、犯してしまう人はいるし、それでも何も起こさない人もいる。では、罪を犯してしまった人は果たして「悪い」のか。

結局、罪を憎んで人を憎まずという事に尽きるのだ。犯罪には何か理由がある。その理由を考え続けることが、結局は人を考え、社会を考えることに繋がるのだ。だから、こんな罪人は死刑にしてしまえ、罪は償って当然なのだ、みたいな高飛車な意見には与することが出来ないのだ。畢竟、罪を裁くと言うことは人を裁くことではない。極論すれば人は人を裁けないとも言える。

もう一つ別の観点。人は「罪を犯す自由」があると思う。
悪意を育み善意を持つに至らないような人生を送ってしまい何事も罪を犯さなかった人がいたとしよう。その人の人生は間違ってはいないけど正しいとも言えない。勿論、犯罪に走るのも正しいとは言えないけど自分の不遇を犯罪という形で訴える「自由」はあるのだ。その自由を行使することによって世の中が動くこともある。我慢するだけが正しい訳じゃない。犯罪という発露の仕方は有効ではない場合が殆どだけど。それでも今回の秋葉原の加藤君のようにその犯罪が派遣労働者の待遇改善に繋がることがあるかもしれない。社会のダイナミズムの一翼を担っている。その犯罪も含めて社会なのだ。犯罪も社会の一部なのだ。

多分、この辺は理解されづらいのだろう。ありきたりな反論は望みません。別に俺のオリジナルな考え方ではないです。俺は自分の考え方の出展を明らかにしないのを自分へのルールとしてます*2がこの辺はミシェル・フーコーの影響が大きいと思います。内容は覚えてないけど俺の血肉。

*1:両親との対関係以外に兄弟同士の対関係が存在する。それが全く対等というのはあり得ない

*2:権威付けを避けるため+自分自身の言葉で話をしたいため