原発容認派より一言(前編)

今は原発容認派ではあるが昔はバリバリの反核派だった。核兵器原発も反対だった。核兵器に対してはここでは述べないが原則反対である。原発に対しては容認の立場を取っている。何故容認なのかをここに書く。

俺の反核の歴史は高校生の時から始まる。高校生の時に学祭で反核に関する展示会を行った。色々調べたり資料を集めたりした。「高校生としての反核」みたいな寄稿も行っている。*1 そのまま大学生になり反核っぽいイベントには顔を出していた。広島長崎には行ったこと無いけど第五福竜丸には行った。

社会人になってからは暫く反核の事とか忘れていた。それでも事が起こるたびに色々考えたり調べたり、たまに本を読んだりした。

反核を考えながら推進派の意見も聞いた。というより原発がどういう技術に支えられてるかを聞いた。原発反対派というのは理論武装が楽なのだ。「安全性が証明されていない」の一点張りで済む。それに対して原発を推進する側は安全性に対して愚直に問題解決を続けているように見えた。勿論、安全性の証明とかはなかなか難しい。しかし、永い間、反核運動原発を眺めている側からみると原発の安全技術は進歩が幾つか感じられた。パッシブなECCSとか自然対流を使った炉心冷却システムとか。けど、そんなこと反核の連中は知ったこっちゃ無い。

段々と反対のための反対になってやしないか。反原発活動家は市民運動だ。原発のような巨大プロジェクトを進めるに当たり市民運動のチェック機能は必要不可欠だ。がそれにしても進歩を感じなかった。

原発の立場は様々な問題点を指摘する。原発を推進する側は十全ではないにせよそれに応えようとする。勿論、原発を推進する側には様々な構造的組織的問題点は見て取れる。けど、それらの問題点を解決すれば安全性が確保できるんじゃないの?と言うことも出来そうだ。進歩する安全技術と、原発に巣食う構造問題を解決すれば。それでも重箱の隅をほじくり続ける反原発が段々とうすらみっともなく見えてきた。技術の進歩をみんなで考えるほうが建設的ではないか。

原発はいい意味での条件がない。こうなればOKという条件が提示されない。なのに問題点ばかりを指摘する。これじゃ健全な議論にならない。

もう一つ、石油の枯渇問題がある。これが実は最大の問題点で今後、遅くとも百年のうちに人類は重大な岐路を迎える筈だ。早ければ50年以内かも知れない。

石油=化石燃料枯渇は俺が小学生の時から言われていた。*2石油があと30年で枯渇すると言われてから何故、石油が未だに枯渇していないか。それは採掘技術が発達しているからなのだ。現代の消費ペースで天然ガスや石油しか使えないとするならあと30年から50年ぐらいで枯渇するって言われている。メタンハイドレートが使えるようになると+30年、ビチューメンやオイルサンドが使えるようになるとさらに30年か。けど、だんだん深く掘ることになるし採掘のコストもかかるようになる。

どこかで採掘のコストに見合わない特異点が発生する。そうなると我々は化石燃料を使えなくなる、またはごく一部の限られた金持ちだけのためになる。

さらに化石燃料国際紛争の種になる。イラクが何故クエートに侵攻したか。石油価格の調整のせいじゃないか。一説には地下鉱脈で繋がっている油田の採掘権がどちらに帰属するかって水面下の争いがあったようだ。我々日本人に身近な問題として尖閣諸島問題がある。あの海域にある海底油田がなければ日中は角を突き合わせることもない。

このまま原発代替エネルギーが示されずに原発が闇雲に否定されたら原油などの化石燃料は貴重さを増す。経済的なそれらの価値が上がればそれを巡ってあちこちで争いが発生するのだ。第三次世界大戦があるとしたらそれを導くのは化石燃料と民族問題だと思ってる。

取り敢えずここまで。時間切れ。

*1:その文章は今は見つけることが出来ない

*2:実は小学校の時にしった枯渇問題が核の問題を意識するきっかけだった