事件報道に求められる物語

[時事]事務次官連続「テロ」-役人に対するルサンチマン? - 湯=気/日+記

このときに予想した俺の犯人像というのは外れた。見事に外れた。動機は犬を殺されたってことの一点からぶれはないようだ。論理の飛躍が甚だしいけどそこは今、突っ込まないようにする。
犬から官僚へ、動機の「飛躍」埋まらず 小泉容疑者 - 社会

元厚生事務次官宅連続襲撃事件は4日、さいたま市の無職小泉毅(たけし)容疑者(46)が殺人と殺人未遂容疑で再逮捕され、新たな段階に入った。入念な計画の上で実行したとされる一方、「飼い犬のあだ討ち」との動機の説明は不可解さをぬぐえない。容疑者の心の闇をいかに解き明かすかが今後の捜査の焦点だ。

何か事件があるとそこから我々は物語を見いだそうとする。このような事件が発生するとこれはどういう事なのだろうって解釈を加えようとする。今回の場合、国民の官僚に対する、とりわけ厚労省に対する不満が蓄積しているという背景の中で何らかのテロではないかとの見方が広まった。小泉が逮捕された後でも、彼にはテロ組織の黒幕がいてそれに操られているのではないか、という見方を何度か見聞きした。

実は小泉容疑者の動機なんてどうでも良いのだ。何かの事件をどう解釈するかによってその人が世の中をどう理解しようとしているかが浮かび上がる。どう理解したがっているかと言った方が良いのかもしれない。それがその時々が持つ時代の趨勢とか空気とかそんなものを反映しているのだ。一個人の動機などよりも多くの人が想定する、想定したがる物語の方がその事件を読み取る上で重要なのだ。

社会の成り立ちや歴史や人間の性質などを読み解くために神話や民族譚が引き合いに出されることが良くある。精神分析学、民俗学文化人類学等々。神話や民俗譚は、いや、全ての物語は「こうであったら良いな」とか「こうであるに違いない」とか「面白い」とか「美しい」とかの空想だ。事実であっても空想であってもそんなに差はない。伝えられ語り継がれることに意味があるのであってそれが事実であるかどうかはそんなに大切ではないのだ。

考えてみれば事件報道は現代の民族譚のようなものなのだ。移り気で恣意的な民俗譚。けど、何かを反映していることには違いない。