表現と「巧い」ということ

マイルス・デイビスチック・コリアを評してこう言ったことがあるらしい*1
「あいつはピアノを正確に叩くことしかできない奴だ」
チック・コリアは俺も好きなピアニスト*2なのでこう糞味噌に言われると可哀想な気がするのだが彼の超絶技巧は巨人マイルスに全く評価されていない。巧いだけでは意味がないのだ。
凡そどんな表現手段であってもそうであるだろうし、そうでならなければならないのだけど、テクニックとか技巧とか言われている物は表現の手段でしかない。その手段だけではダメなのだ。それを用いて何を表現するかが重要なのだ。絵を描くためには絵の、音楽を奏でるためには楽器の、踊るためにはそのためのテクニックが必要だ。ただし、そのテクニックを身につけることは派生的なものでなくてはならない。表現というのはそこが基本だ。何を今更当たり前のことを言ってるのだって気もするが。*3
手段と目的はしばしば入れ替わる。技巧と表現内容が融和しながらそれぞれ発展していくような形というのはあるだろう。けど、その場合でも本来の表現と言うところに立ち返ってどんな物を吐き出していくかって事により重きを置いていくのが良かろう。勿論、技巧だけが問われる世界というのもある。けど、それは職人やら曲芸の世界でしかない。表現とは別だ。
手習いなんて言葉がある。それを否定するわけではない。けど、願わくば表現のとば口に立ったのであればどんな些細なことでも稚拙なことでも良いから自分の音楽なり絵なり言葉なり踊りなりを紡ぎ出して欲しいと思うのだ。多分、多くの人はそれと気づかずそれを行っているはずだ。

*1:出自が不明で記憶に頼っている話。間違っていたらごめんなさい。誰かが誰かに対していった言葉であることは間違いない。マイルスがチック・コリアに対していったのであれば弟子に対して言ったことになるかな

*2:ただし、振り返ってみればこの人の作品は出来の善し悪しがばらばらで好きなアルバムは数少なかったりするw

*3:きっと何かあったんだとご賢察下さい