高校野球に見え隠れする「全体主義」

「桐生一高、辞退せず 校長「他の部員にまで責任負わすのは…」」スポーツ‐その他ニュース:イザ!

「被害女性より部員の気持ち優先か」会見場怒号…桐生一監督交代もなし:高校野球:野球:スポーツ報知

痛いニュース(ノ∀`):【高校野球】 桐生第一の出場認める…高野連

桐生一高の野球部の選手が強制わいせつを犯したのに連帯責任で野球部が甲子園辞退をしない/させないのはけしからんという意見が多いようだ。

連帯責任という考え方は全体主義的なる物*1に根ざしている。全体主義とはは全体の利益や目的が個人の自由や権利に優先される考え方で今の世の中では概ね否定されている。

これは概ね全体主義的な上部組織から押しつけられる物だ。今回の場合、社会が責任をとることを押しつけようとしている。だが、今回、高野連はそれを退けた。これは社会が全体主義的傾向を持っていると考えるか、スポーツの世界は全体主義で行くべきだと考えているか。ここで言う「全体」とは高校野球の秩序とでも言うべきであろう。

概ね否定されている全体主義が適用されるというのは非合理的だ。世の中の厳罰化傾向がこの動きに拍車をかけているのか、厳罰化したいが為に全体主義を用いてでもそれを成し遂げようとしているのだろう。

個人の自由よりも全体の目的を優先すべき状況というのは実は何処にでもある。チームスポーツというのはチームの勝利のために個人が努力をするというのが前提だ。それだけじゃなくて例えばプロジェクトのために自分が頑張るとか、会社の為に頑張るとか、全体のために個をある程度犠牲にするというのは当たり前に存在する。それらの全てが否定されるべき筈もない。

その「全体」のサイズが問題だと思うのだ。国家とか個人が全容を見ることが困難な「全体」を軸にした全体主義はまずいのではないか。全容が見えないだけに利用されやすい、騙されやすい、実態が曖昧になりやすい。今回の措置で桐生一高が処分されたとしたら高校野球全体という大きな組織のために処分されることになる。それはまずいと思うのだ。大きな「全体」の保全の為に一高校の野球部という小さな「全体」を処分する。全体主義はこうして階層化されて作用するのだ。

そういう処分の仕方も、処分を求める声も甚だ前時代的だと思う。それでもそんな声が挙がってしまうというのは何かに追い詰められているのだろう。

*1:wikipediaによると全体主義とは国家に対して使う言葉らしいので「全体主義的なる物」と書いた。以下くだくだしいので全体主義と表記する