ムンバイのテロ - 力と知性

これはムンバイに限らずだいたい何処でも似たような傾向があるのだけど今回感じたことなので書いてみる。

政治的正義を実現するために武力を行使するというのはあっても良いと思う。ってかちょっと仕方がないところがある。必然というか。大きく歴史が動くときにはかなりの確率で暴力が機能している。

正しいとか間違っているかは別にして歴史を動かす側は力を備えた側だ。そして今までの大抵のケースでは(やはり正しいとか間違っているかは別にして)何らかの理想とか思念とか利害とかに基づいて行動する。そして歴史が変わったときにはそれなりの責任を持って権力を掌握する。

テロリストだって一緒だ。何らかの行為をテロと呼ぶのは秩序の側にいる人間である。実行する人間は革命だと思ってやっている。それが成功すればれっきとした「正義」となるのだ。

ところがいまや「力」のコストがとてつもなく下がってしまったのだ。冷戦の頃であればいくら金があってもバズーカを買えることは少なかっただろう。今は国家の治安の程度にも依るけど簡単に手に入ってしまうのだろう。ミサイルとかも一緒かも。その入手のコストが下がったので大した知性も思慮もない輩が革命家気取りで安易に事に及ぶことが出来るようになってしまったのだ。ムンバイのエスニックなホテルが爆破される映像を見てそう感じた。

今回の犯行声明出したデカン・ムジャヒディンというのはその名を知られていないとても小さな組織か振興組織かってところらしい。それがあんな大規模なテロを行えてしまうと言うのが怖いところである。知性がないのに力だけ手に入れてしまっているのである。あれだけ派手にやるならオバマ次期大統領のスピーチぐらい魅力的な犯行声明が欲しいところだ。

世界中に不満を持つ人が増えて、そしてそれらの人が簡単に「力」を手に入れることが出来る世の中になっている。これから先もそうなり続けるのだろう。少数民族の問題、宗教の問題はこれからもあちこちで火の手を挙げるに違いない。「テロとの戦い」とやらはますます泥沼化するのだ。

そのうちコンビニで核兵器が売られるようになったりして。(さすがにそれはない)