泳ぐのは僕だ


北島康介はなかなか鋭い、と思った。早さとか高さとか距離とかそんなんを競うスポーツは限界に近づきつつあるのだ。ブレークスルーは道具でしかない。あとはドーピングという方向か。ドーピングにならないような、ドーピング。事実、マラソンとかは代謝を高めるために様々な化学的手段を使ってるとか聞く。他のスポーツでも同じかも知れない。いずれにせよ主役は人間ではない。技術だ。

嘗ては競技者としての人間を活かすために技術が使われた。これからは技術を活かすための人間がスポーツに於いても重要なのだ。

勿論、アスリートたちが血の滲むような努力をしているし、それは素晴らしいことだと思うけど、主役は既に人間ではない。そのことを敏感に感じ取り表現した言葉が「泳ぐのは僕だ」って事なんだ。俺も同じ立場だったらそう主張するだろう。ところがそう主張することが既に人間が主役では無いという現状を際だたせてしまっているように俺に感じさせたのは皮肉なもんだ。

世界記録はもう生まれない?「スポーツ選手は肉体の限界に近づいている」

調査の結果、1896年から1968年の期間には、世界記録は頻繁かつ大幅に更新されていることが分かった。その後、記録更新のペースは鈍り、完全に停止してしまった種目すらある。一例を挙げると、フローレンス・グリフィス・ジョイナー(Florence Griffith-Joyner)が1988年に女子100メートル走で樹立した10.49秒の世界記録はいまだに破られていない。
研究チームがまとめた統計的モデルによると、2007年現在、世界記録は人間の肉体的限界の99%に達しており、この傾向はあらゆる競技に共通しているという。